私は、現象学的心理学者ではあっても、現象学的哲学者ではありません。私は、現象学者になることを目指して学んで来たのではありません。私が教育心理学者として、人間の間で行われている教育の営み、その中でも、授業と言う営みを、人間の間の営みとして理解することを目指して努めて行った結果、現象学に辿り着き、現象学的心理学に辿り着いたというにすぎません。そのため、その精神において現象学者に深く共感していますが、しかし、現象学者であるためには何を為さなければならぬか、と考えて努めて来たのではなく、この特定の現象を理解するためには、何を学ばなければならないか、と言う姿勢で、学び続けてきました。かつて、若い時に学んだ弁証法的唯物論における現象学への偏見と蔑視を共有しておりましたために、現象学そのもにに改めて取り組んだのは、40歳に近くなってからでした。当初、弁証法的唯物論との接点から現象学に近づこうとしたことさえありました。トラン・デュク・タオを経由してフッサールを学ぼうとしりしたのも、そのような事情からでした。長生きしたお陰で、40歳から始めた現象学の学びも、気が付いてみれば、既に40年を経ています。20歳で始めて60歳に辿り着くに費やすのと同じ長さの時間に亘って、現象学に接してきたことになります。今は、私にとって、現象学的な物事の見方は、空気のようなものとなっています。そして、若い時に学んだ、実証主義的科学主義、弁証法的唯物論、一般システム論、情報理論、そして、形式的存在論、なども、現象学的な物の見方によって、私なりに統合的に捉えることが出来るようになった、と喜びをもって感じることができます。しかし、私は、よくもわるくも、私の関心の中心が、あくまでも、人間にある、ということを強く感じます。そして、そのことを、自ら肯定してもいます。 一人ひとりの現象学者の人間としての在り方を含めて、人間の具体的な在り方に、私の関心は強く惹き付けられているようです。
この「世界」に現象学的哲学を期待なさる方には、期待外れに成るかも知れません。その点は、どうぞ、お許しください。
人間に関心が集中しているがゆえに、心理学であったのだし、現代心理学に顕著なその限界を超えようとして、現象学的心理学に辿り着いたのだし、その限りにおいて、現象学に惹かれている、そんな世界が、私の「現象学の世界」なのです。
News 『学ぶと教えるの現象学研究』16号が刊行されました。この号には、私の論稿がPDFで掲載されています。以下のBlogで、論稿を探し当てて、ご覧ください。ブログは、宮城教育大学教授・田端健人さまのものです。
http://tabata2014.blogspot.jp