A Brief Self-introduction: A Profile

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『子どもと出会う』 中国語版 内蒙古教育学院
KODOMO TO DEAU 両代的交流 内蒙古教育学院.pdf
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 Akihiro YOSHIDA (1934-) was born in downtown Tokyo. He had experienced the World War II in his boyhood. A graduate of Imagawa Junior High School, Hibiya Senior High School and the University of Tokyo. He had the luck to be  honered to serve as the valedictorian at the graduation ceremony of the University in 1960. He was a Fulbrighter at the University of Illinois as a research assistant (1964-67) and got his Ph.D. in 1967. He was a research Associate (1967-69) at Cornell University in Ithaca, N.Y. . He worked in the following universities: Ochanomizu Women's U.(1969-72) the U. of Tokyo (1971-1995), the U. of Iwate (1995-1998), Kawamura Gakuen Women's U. (1998-2001) and Shukutoku U.(2001-2010) As a visiting professor. he taught in Japanese universities including Kyoto, Osaka, Kyushu, Okayama, Gunma, Saitama, Chuo, Rikkyo, Nihon Women's, and Tsuru. He taught, as a "Guest Professor", at the Open University in Japan for 10 years(1990-2000), while teaching Educational Methods and Psychology of Education on the two series of TV lecture programs. He was a Fulbright senior visiting scholar (1980-81) at Duquesne University in Pittsburgh, USA, where Phenomenology and Phenomenological Psychology were flourishing. In his life, he had wandered through many schools of psychology, including positivist mathematical psychology, dialectical materialistic one, cognitive one and phenomenological one. He co-worked with Japanese practicing master teachers for over ten years (1971-1982)  His major consistent concern has been Human Being, from the perspectives of Education, Psychology and Phenomenology. Fortunately, in his life, he has been able to visit many countries and universities overseas, including Korea, China, Taiwan, Russia, Philippine, Australia, New Zealand, Mexico, Canada, UK, Denmark, Norway, Sweden, Swiss, France, Germany. Austria, Czech, and so on. He is a member of IHSRC  ( International Human Science Research Conference) and of the consulting editorial committee of the Journal of Phenomenological Psychology.  He is an honorary member of Japanese Association of Educational Psychology. He is a Professor Emeritus of the University of Tokyo.

 Most of his writings, excluding the copyrighted books and articles, will be uploaded in this homepage, because he believes that this would be the last opportunity for him to let his own works be known to the worldwide public readers as the fruits, however poor, of his life-long academic wanderings.  

  He has been married for these 46 years, in his first and last marriage, and has a son and a daughter.  

  Well, you cannot tell everything in a brief  Self-introduction.

  Thank you for your reading of my semi-personal auto-biography.

  I do hope that you will enjoy reading at least some parts of this homepage, and hopefully, that you will find something stimulating and meaningful for discovering your own new insights into the real life worlds of human beings.



自己紹介

吉田章宏(よしだ・あきひろ) Akihiro YOSHIDA

1934(昭和9年)、東京市神田区宮本町(神田明神の鳥居と鳥居の間)の民家で生まれた(と聞かされている)。

学歴:

 東京市神田区立橋本小学校幼稚園修了、同区立橋本国民学校、渋谷区立千駄ヶ谷国民学校、静岡県田方郡伊豆長岡国民学校、東京市目黒区五本木国民学校、東京都千代田区芳林小学校卒業、東京都千代田区立今川中学校、大阪市南区立南中学校、東京都千代田区立今川中学校卒業。

 「大東亜戦争」が、国民学校1年生から5年生までの歳月(1941-1945)を重苦しく覆うことになった。1945年3月10日の東京下町の米軍によるB29空襲の焼夷弾爆撃(犠牲者は10万人と伝えられている)を知り、いずれ訪れる爆撃から逃れて、母子家族として伊豆長岡の古奈温泉に疎開。1945年5月25日の山の手大空襲で、千駄ヶ谷の自宅は焼失。8月15日の敗戦は疎開先の伊豆長岡で迎えた。目黒・祐天寺に借家が見つかり、東京に舞い戻る。東京は米軍兵士で溢れていた。翌年、「天皇人間宣言」があり、教科書の墨塗りが、ついで、没収が、行われた。合法的な食糧配給のみで生活することを貫いた裁判官の餓死が報じられた。餓死しなかった国民は、非合法の「闇」の食糧で生き延びていたのであった。国民学校5年生の少年にとっては、実にめまぐるしい、昭和20年の1年間の激動であった。。

 都立日比谷高等学校卒、東京大学理科一類(S1/6B)入学、東京大学教育学部教育心理学科卒業、東京大学人文科学研究科修士課程修了、同博士課程満期退学。フルブライト大学院留学生として、米国イリノイ州立イリノイ大学大学院に留学(1964-67)、教育心理学を専攻、同博士課程修了。

学位:米国イリノイ大学 Ph.D.(1967)、東京大学人文科学研究科修士(1961)

職歴:

 米国イリノイ大学研究助手(1964-67)、米国コーネル大学研究員(1967, 1968-69)、お茶ノ水女子大学助教授(1969-72)、東京大学助教授(1971-85)、同教授(1985-95)、岩手大学教授(1995-98)、川村学園女子大学教授(1998-2001)、大乗淑徳学園淑徳大学特任教授(2001-2010)、東京大学名誉教授(1995-) 

 

 米国ペンシルヴァニア州ピッツバーグ市私立Duquesne大学に、フルブライト上級研究者として、単身、海外研修(1980-81)、同大学心理学部と哲学部大学院において、Amedeo Girogiをはじめとする諸教授の、多様で多彩な現象学と現象学的心理学の研究に親しむ。南アから来訪中のDryer Kruger教授とは同じ寮で生活し、親しく交流した。

 その後、人間科学研究国際会議(IHSRC: International Human Science Research Conference)の Bernd Jager, Steen Halling, Jonathan Smith, Linda Finlay, Bertha Mook, Chris Aanstoos,Paul Murray, Lester Embree, Peter Ashworth, 故Thomas Cloonan, Marc Applebaum、をはじめ、数多くの知友との30年を超える親交と淡交が始まり、今日に至っている。 2001年には、大正大学のカウンセリング研究所のご好意により、東京の代々木オリンピック記念施設で、同会議の東京開催を実現することができた。

 

 その間、九州、岡山、大阪、京都、都留文科、群馬、岩手の諸大学(順不同)で、非常勤講師として、集中講義を行った。また、都内外の埼玉、中央、お茶の水女子、立教、日本女子、大正(順不同)の諸大学で、非常勤講師を務めさせていただいた。また、放送大学で、客員教授として、科目「教育の方法」を、ついで科目「教育の心理」を、合計10年間にわたって担当させていただいた。また、思い起こすままに略記すれば、山口、広島、富山、岡山、名古屋、長野、横浜、川崎、東京、千葉、新潟、山形、秋田、岩手、札幌、旭川、などで、さまざまな機会に、講演等をさせていただく機会を授かった。 

 

 教育と私 気が付いてみると、私の生涯は、教育いう人間的な営みと不思議で特別なかかわりをもつ人生となったうようにも思われる。まず、上記の橋本国民学校(6歳から8歳まで在学)での恩師小林禎吉先生のご縁のある秋田大学教育文化学部付属小学校の公開研究会で、記念講演を行う機会が与えられたことである。この記念講演は、 かつて私も世話人を務めていた「教授学研究の会」の創始者・斎藤喜博先生との深いご縁のあり、当時同校副校長であった濱田純先生と元境小学校教諭の実践者大津志津江先生の、お二方のお世話により実現したものであった。(その講演記録は、2003(平成15)年度/同校実践記録集Vol.6に収録され、本ホームページ「公刊論稿」および「教育の世界」にもpdfとして、「『学びのふるさと』の生成:授業と表現活動の構造と意味」と題して、再録されている)。

 また、上記の芳林小学校(11歳から12歳まで在学)での恩師宮崎雄二先生のご紹介により生まれたご縁で、当時、都下西多摩郡瑞穂町立瑞穂第三小学校で、田嶋定雄校長のもとにあって、教育実践への情熱に燃えていた若い教職員の方々に支えられて、斎藤喜博先生の教育実践に学ぶ独自の実践研究活動を展開し、ーーー事情が在って、私にとっては一年間余という短い期間に終わることになったとはいえ、ーーー親密で共同的な実践研究の機会を得たこと、である。同校では、畏友武田常夫先生にも、親しくご指導いただく機会を授かった。このことは、私にとって決して忘れることの出来ない、懐かしい思い出である。

  また、一人の平凡な生徒に過ぎなかった高校時代の私に、誇り高き都立日比谷高校の一年生の解析Iの授業を担当された岡田章先生は、厳しく、しかし、暖かく、眼を掛けてくださった。当時の私は、家庭の事情もあり、どこか頼りなげで、不安げな少年であったに相違ない。その平凡な一生徒と岡田先生とのご縁は、その後、一生続くことになった。そして、1994年のご逝去の後、都立日比谷高校と府立第二女学校の、先生の薫陶を受けた卒業生たちの会が有志によって誕生し、「岡田会」と名付けられた。墓参と学年差を超えた交流活動が始まった。追悼集『前半ヨシ 後半ヨシ 合せてマチガイ 岡田章の軌跡』(岡田章先生追悼集刊行会、野村徹雄会長、1999年)が刊行された。その後、私は、最年長者として、岡田会の会長を務めさせていただいた。墓参や会合、墓碑の建立などと、会の活動は、近年まで続けられた。その後、事情により、会は「パラボラの会」として再発足し、開かれた交流会が今日まで続けられている。一人の高校数学教師の薫陶を受けた生徒たちの、65年を超す多様な交流の歴史がそこに生れた。その歴史を生きる一人として、教育を介する豊かな人間的交流を、幸運にも、生きることとなった。その不思議なご縁に感謝している。(「岡田会」の詳細はLinksリンクからアクセスできる島田聡氏のホームページ参照)

 さらにまた、岩手大学に赴任した1995年には、盛岡の街の交差点で、偶然、根田幸悦先生と遭遇した。先生は、斎藤喜博・柴田義松・稲垣忠彦・吉田章宏の四人で世話人を務めた歴史のある「教授学研究の会」(その活動記録は、国土社から『教授学研究』として刊行,本ホームページにpdfとして掲載。)に所属していた熱心な教育実践者である。そして、先生が校長を務めることになった県下冬部郡の山間僻地校・冬部中学校の実践研究活動に、3年間(1995-98)に亘って、一人の研究者として参加させていただき、根田先生の校長としての苦闘(根田幸悦著『新米校長失敗物語』一茎書房に記録されている。その一部は、pdfとして『教育の世界』に掲載。)に参加する貴重な体験を授かった。これも、忘れることの出来ない年月であった。

 私の生涯にわたる、教育実践と研究という営みを介しての、人と人との縁(えにし)の深さと不思議さを想い、深い感慨と感謝の心をもって、ここに、以上の四件を特記させていただく。

 近年は、私の最後の勤務校であった淑徳大学のご好意により、池袋サテライトキャンパスにおいて、「吉田章宏ゼミナール」と称して、半年に一度、その時どきにテーマを選んで講演することを、続けさせていただいている。有り難いことである。

  2017年3月 淑徳大学池袋サテライトキャンパスにおける「吉田章宏ゼミナール」は、淑徳大学の事情により、終了しました。長年にわたるご好意に感謝いたします。吉田章宏

 

 2015年5月初旬の段階で、本ホームページは、世界57か国もの人々からのアクセスを頂いている。有難く、また、嬉しい限りである。世界は広く、そして、狭い。

  

 所属学会:

 日本教育心理学会名誉会員、人間科学研究国際会議(IHSRC)会員、日本現象学会会員、米国「現象学的心理学誌」(Journal of Phenomenological Psychology)編集顧問 (2014年12月現在)。 

 2014年現在の時点で、その他の(上記以外の)学会の総てから、退会している。